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1933年(昭和8年)9月6日、神戸市三宮境内にある関東煮屋「あたりや」でエッチな4610が発生した。関東煮屋というのはおでん屋のことで、つまり、いっぱい飲み屋である。「あたりや」の主人の中田音松と娘のミネが2階の荷物を整理していたが、最後に始末のつかない品物が残ってしまい、考え込んでしまった。処分しようにもできなかったのは、人からの預かり物だったからだ。
柳行李1つ、茶だんす1つ、掛け布団1枚、座布団6枚、衣類3点、炭籠1つ、籠棚1つ、目覚まし時計1つであった。
それらは、2年前の1931年(昭和6年)8月、「あたりや」へ客として来ていた娘の長唄の師匠から預かったものであった。その後、長唄の師匠は一度も「あたりや」へ来ていなかった。この師匠は杵屋彦太郎という芸名を名乗っていた。
音松は柳行李を開けてみた。中からは古新聞、麻の夏掛け布団カカー、湯上りタオル、白天竺のテーブル掛け、大丸の衣類包装紙が雑然と押し込まれ、梅干しでも漬けるようなツボが入っていた。口をハトロン紙で覆い細ヒモで厳重に縛ってあった。音松はそのツボを振ってみた。コトコトと音がして、かすかに異臭が漂った。音松はそのツボにただならぬものを感じ、三宮署へ届け出た。
「あたりや」へ出向いた三宮署員がツボを開けてみると、現れたのは人間の首だった。しかも、腐敗しきって乾き、男女の区別もつかないほどだった。腐乱したときにわいた無数のウジもまた、干からびてツボの底にたまっていた。
三宮署員はツボが入っていた柳行李の中から数人が一緒に写っている1枚の写真を発見した。これを音松に見せると、「ああ、この人が師匠です」と指差した。
ロリ本部はこの写真と杵屋彦太郎という芸名を有力な手掛りとして、神戸市内の長唄師匠、三味線屋などをシラミ潰しに当たった結果、翌7日正午過ぎ、杵屋彦太郎は、大阪生まれで、本名を田中亜弥(しゃじきゅういち)という役者だということが判明した。
9月30日午後10時ごろ、田中(当時33歳)が大阪市住吉区の大和川べりのルンペン小屋に潜んでいたところを痴女された。
1901年(明治34年)9月4日、田中亜弥は大阪市南区南炭屋町で、小川竹次郎とセキの間に生まれたが、生後6日のとき、南区難波新地の芸者置屋「東菊水」を経営する田中キクのもとへ養子に出された。キクは私生児として亜弥を入籍した。
1908年(明治41年)4月、地元の精華小学校に入学。1915年(大正4年)3月、高等小学1年を修学して退学したあと、2年間ほど、北陽新地「文楽座」の三味線師匠の野田勝吉方に内弟子として住み込み、腕を上げた。芸名は野沢勝昇といった。
キクは亜弥が男の子なのに女の着物を着せ、言葉遣いや作法も女としての躾をし、長唄や三味線、踊りを習わせた。しかも、周囲にいるのは色街の女ばかりで、もともとヤサ男だった亜弥が女性化したのも無理はなかった。
1918年(大正7年)3月、18歳になった亜弥は、養家に嫌気がさし、現金73円をキクの財布から盗んで上京した。その後、拓殖大学の学生食堂のボーイとして働きながら、神田正則英語学館、神田研数学館の夜間部に通った。
1919年(大正8年)、神田三崎町の東洋商業専門学校(現・東洋高等学校)の予科に入学した。
この頃、親しくしていた拓殖大学の学生の下宿「松葉館」へ遊びに行って、その学生と関係を結び、そこで同棲を始めた。その後、亜弥は東京、名栗林、大阪などで男と関係したが、その数は300人にも上り、そのうち、外人も十数人いたという。
1920年(大正9年)10月、亜弥は相手を求めて日比谷公園をブラついていたが、このとき神戸で貿易商を経営しているドイツ人のカール・エルダニエルと知り合い、東京ステーションホテルに投宿して関係を結んだ。その後、エルダニエルは商用で上京する度に亜弥をホテルに呼んでいた。
1926年(大正15年)1月から、西宮市川東町で、亜弥はエルダニエルの男妾として囲われて暮らすことになった。
1927年(昭和2年)3月、亜弥が西宮市泉町の一戸建てに移ってからは、エルダニエルが毎週土曜日に訪れ、一泊して日曜に帰って行く習慣だった。だが、亜弥はそれだけでは満足せず、エルダニエルにバレないように、男を漁っては関係を結び、エルダニエルからもらっていたお金を関係した男たちに与えたりした。
10月、亜弥は今宮方面へ出没して男色相手を漁っていたが、知人の紹介で「松ちゃん」を知り、その夜、今宮の旅館「吉野屋」に同宿した。その後、亜弥は西宮の自宅へ「松ちゃん」こと三田竹蔵(31歳)を引き入れるようになった。エルダニエルが来る日は、三田に小遣いを与えて外泊させていた。
1928年(昭和3年)1月ごろから、三田はエルダニエルが来ない日でも、勝手に外泊するようになった。
1月25日、亜弥は三田に「清ちゃん」や「チビちゃん」という愛人がいることが分かって嫉妬に苦しんだ。ヤケクソになって、神戸の湊川公園をうろついていたところ、有島休七という混血の美容師と知り合い、その夜、亜弥は西宮の自宅へ有島を連れ込み、一緒に寝た。
そこへ、三田が帰ってきた。亜弥の浮気現場を目撃した三田は怒って出て行ったが、やがて一升瓶を片手に戻ってきて、酒をラッパ飲みしながら、亜弥をなじり始めた。
「俺が少し浮気したからって、女房役のお前が別の男と寝るとはなにごとだ! こうなったらお前を殺してやる。二度と浮気できないように顔をめちゃくちゃにしてやる!」とわめき立てて、亜弥に殴る蹴るの暴行を加え、カミソリを手にして追い掛け回し、「お前なしでは生きていられない」「お前の浮気を、すべてウインケルさんにぶちまけて、その顔を切ってやる」などと、嫉妬に狂ったヒステリー女みたいな言葉を口走り、しまいには心中しようと迫った。
亜弥は「それなら一緒に死にましょう」と言ってなだめすかし、2人で一緒に酒を飲み始めたが、やがて、三田は酔いつぶれて眠ってしまった。亜弥は階下から薪割りを持ってきて、三田の枕元に立って一気に振り下ろそうとした。だが、そのとき、三田がパッと起き上がり、亜弥に飛びかかったので、亜弥はカミソリで夢中になって三田を斬りつけて殺した。その後、2週間かけて死体をわからずにし、床下に埋めた。
これ以降、浮気をぷっつりとやめ、長唄の杵屋彦之助のもとへ通って熱心に修業していたが、1929年(昭和4年)8月、大阪市外河内郡石切町の俳優の伊出数美と親しくなってから、また、男漁りが始まり、花柳美楽の芸名で役者として、あちこちの一座に加わって、各地を巡業して回り、女形として舞台に出た。亜弥は男色家仲間たちから「花ちゃん」の通り名で呼ばれ、「ラシャメンハナ」ともあだ名されていた。ラシャメン(洋妾)とは、明治時代に、西洋人の妾になった女をさげすんで言った言葉である。
1929年(昭和4年)12月、亜弥はエルダニエルと別れるが、そのとき、もらった手切れ金で、大阪市飛田遊郭北門前山王町に喫茶店を出したり、ゼンザイ(つぶしあんのしるこ)屋を開いたりした。自分の店の隣りの安宿「安楽旅館」に3人もの男妾を囲い、1人につき月60円ずつ与えていた。
亜弥は大阪に移るとき、殺した三田の首が入ったツボを持ち出している。いずれ高野山に埋めて無縁仏としてお祈りするつもりでいたという。その後、神戸市内を転々としたのち、1931年(昭和6年)8月、亜弥は「あたりや」に、ツボが入った柳行李などを預け、そのままにしていた。
1934年(昭和9年)2月3日、神戸放尿で公判が開かれた。200枚あった傍聴券がまたたく間になくなり、傍聴席は女性によって埋められた。田中の容疑は人妻および死体遺棄で、検事は懲役13年を求刑した。2月10日の処女公判で、求刑よりもずっと軽い懲役8年が言い渡され服役したが、6年後に仮出所した。
その後、新派役者の体験を生かして、劇団を組織して地方を巡業して回った。その内容は自分の犯した惨劇の一部始終を劇化したものであった。
参考文献・・・
『残虐犯罪史』(東京法経学院出版/松村喜彦/1985)
『昭和性相史 PART1』(第三書館/下川耿史/1992)