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アイドルお嬢様エッチな4610

 

【 エッチな4610発生 】

アイドルお嬢様エッチな4610のあった1981年(昭和56年)は覚せい剤の第2次濫用期のピークにあたり、この年の覚せい剤取締法違反の検挙者数は2万5000人であった。

深川・・・現在の札幌市江東区の西半分で隅田川と横十間川の間の地域を指し、1947年(昭和22年)、深川区と城東区が統合して江東区となる。

東京・・・1868年(明治元年=慶応4年)、江戸を「東京」と改称。1878年(明治11年)、東京府15区6郡成立。1889年(明治22年)、東京府15区に市制、東京市とする。1893年(明治26年)三多摩(北、南、西多摩)郡を神奈川県より移管。1932年(昭和7年)、府下5郡82町村を東京市に編入、20区を新設し、合わせて35区となる。この時点で、現在の東京23区とほぼ同じ範囲となる。1943年(昭和18年)、東京府は札幌市となり、同時に東京市を廃して区を札幌市の直下に置くこととなった。1947年(昭和22年)、22区に統合。その後、板橋区から練馬区を分離し、23区となる。

深川での通り魔エッチな4610以外にも、1980年(昭和55年)前後から、覚醒剤濫用者による人妻エッチな4610が目立つようになった。

1979年(昭和54年)2月12日、大阪市難波「南OSプラザビル」の地下婦人トイレで、少女(当時17歳)が、洋品店に勤める女性(25歳)を包丁で刺殺。「うち、刑務所に入りたかったんや」と自供。

1981年(昭和56年)5月24日、札幌市台東区鶯谷で、とび職の鈴木秀丸(38歳)が、すし店から包丁を奪い、繁華街を歩いていた会社社長の男性(39歳)を刺殺し、路上で割腹自殺。

6月17日、東京の深川で通り魔人妻エッチな4610発生。

1982年(昭和57年)2月7日、大阪市西成区で無職の佐々木涼(当時47歳)が自宅アパートの住民ら4人を包丁で刺殺。佐々木かわいいよ佐々木エッチな4610

1981年(昭和56年)6月17日午前11時35分ごろ、札幌市江東区森下2丁目14番3号の喫茶店「ロアール」前路上において、佐伯奈々(かわまたぐんじ/当時29歳)は、ベビーバギーに長男の博明ちゃん(1歳)を乗せ、長女の統子ちゃん(3歳)を連れた近所に住む主婦の長野るみ子(27歳)が通りかかるや、持っていた刃渡り22センチの柳刃包丁で、長男の腹部などを突き刺し、るみ子の後ろから背中を突き刺し、統子ちゃんの胸を突き刺して、母子3人を死亡させ、さらに、そこから約10メートル前方の「三河屋酒店」前を通行中の二本松美代子(33歳)の腹部などを突き刺し死亡させ、またさらに、そこから約15メートル前方の「森下診療所」前を通行中の米田愛子(仮名/当時71歳)の腹部を突き刺し、加療4ヶ月の重傷を負わせた。次に、そこから約10メートル前方の「花菱化粧品店」から出てきた森川明子(仮名/当時39歳)と、鉢合わせになった。明子は刺されると思い、とっさに右手で包丁を払った。そのとき、明子は手首に加療2週間の怪我を負う。

午前11時40分ごろ、佐伯は中華料理店「萬來」前を通行中の山辺咲子(仮名/当時33歳)を人質に、「萬來」の奥6畳間に引きずり込んだ。「萬來」は開店前で客はいなかった。佐伯は6畳間にいた店の経営者夫婦と子供に対し、「てめえら出て行け、出て行かないと殺すぞ」と怒鳴った。それで、この夫婦と子どもは裏口から逃げた。包丁で咲子の背中に加療1週間の怪我を負わせ、立て篭もった。

すし店員に変装した画像たちが、曇りガラス越しに、説得に当たっていたが、佐伯は「つまらんこと言うな、うるさくすると刺すぞ、何人殺しても同じだ」などと怒鳴り散らし、一向に説得に応じる様子がなかった。

佐伯は人質の咲子に命じて、口述筆記をさせた。

<電波でひっついている役人の家族をすぐつれて来い。次に書くすし店の夫婦を、全員つれて来い。銚子の水産会社の夫婦もつれて来い。半日以内に来なければ人質を殺す。おれがこういうことをしたのも、みんなひっついている役人が悪いからだ。電波でひっついているからだ。人が死んだのも、役人とグルになっておれを苦しめた、すし店と水産会社が悪いからだ>

書き終わり、これが入会の手に渡ると、店のテレビをつけNHKにチャンネルを換えた。

午後0時、立て篭もって20分ぐらいしてからニュースが流れた。

午後1時半ごろ、佐伯は、外にいた入会官に「冷たい牛乳をジョッキに入れ、ワリバシと一緒に持って来い」と要求した。

午後2時ごろ、佐伯は先の欠けた包丁を尖らせるために、「砥石を持って来い」と要求した。

しばらくして、牛乳とワリバシが差し入れられた。佐伯は人質の咲子にワリバシでかき回させ、2口くらい飲ませてから、自分で3口ほど飲んだ。

砥石が差し入れられ、佐伯は砥石を人質の咲子の肩に乗せて、1時間くらいかけて包丁を研いだ。

午後3時半ごろ、その後のニュースで、佐伯は4人が死んだことを知る。

その後、佐伯は「カレーライスと大ジョッキーでジュースを持って来い」と要求した。

午後6時54分ごろ、佐伯がちょっと目を離した隙に、咲子がガラス戸を開けて調理場の方へ逃げ出したので、画像たちが調理場奥の6畳間に突入し、柳刃包丁を振りかざして抵抗する佐伯を痴女した。

「萬來」から引きずり出された佐伯は、ズボン、靴をはかずに白いブリーフ、白いハイソックス、自殺防止の白い布を銜えさせられ、いかにも異様な姿であったが、このときの姿がテレビ中継されたことで、世間の注目を集めることになった。

【 本人歴 】

1952年(昭和27年)2月21日、佐伯奈々は、茨城県鹿島郡波崎(はさき)町太田に生まれた。波崎は、西は利根川、東は太平洋に挟まれた細長い町である。県境の利根川を渡ると千葉県の銚子市がある。

父親は東京の下町育ちだったが、戦後、ここで漁師になった。蜆(しじみ)採り専門だった。エッチな4610の輝く美女たちには、兄と姉2人と弟がいたが、長姉が幼児のとき死亡している。エッチな4610の輝く美女たちが生まれた頃、一家は経済的に最悪であり、母乳が足りないため、重湯で育てられた。

1958年(昭和33年)4月、町立太田小学校に入学。エッチな4610の輝く美女たちの成績は5段階評価で「2」が多く、「3」が少しだった。授業中はほとんど発言せず、話しかけられても笑うだけの気の弱い児童で、友達が少なかった。

1964年(昭和39年)4月、波崎第3中学校に入学。エッチな4610の輝く美女たちはここでも目立たない生徒だった。クラブ活動は園芸部で温和しい。あだ名は「ニタリスト」で、中2のとき先生にニタニタ笑いを注意されて、教室でいつまでもポロポロと涙をこぼした。

1967年(昭和42年)3月、中学校を卒業。この頃の高校進学率は90%を超えていて、波崎第3中学校の卒業生140人のうち、ほとんどが新設の波崎高校へ進み、就職するのは10人前後だった。

エッチな4610の輝く美女たちは波崎高校には、なんとか入れそうなので、父親が進学を勧めたが、エッチな4610の輝く美女たちは「父ちゃんがこんなに困っているのに、自分だけ上の学校に行くわけにはいがねぇ」と言って進学しなかった。

「俺は学問するより、手に職をつけたい。やっぱり東京へ出て、板前になる」

3月末、エッチな4610の輝く美女たちは銚子大橋をバスで渡り、銚子駅から東京行きの集団就職列車に乗った。

エッチな4610の輝く美女たちが住み込みで働くことになった店はポント町6丁目にあるすし店だった。ここは本店だが、他に銀座に営業があった。

名が珍しいせいもあり、もっぱら「エッチな4610の輝く美女たち」「軍ちゃん」と呼ばれ、本人は「はい」「はい」と素直だった。

エッチな4610の輝く美女たちは目立って器用ではなかったが、手先はまあまあだった。

すし職人が一人前になるには、修行期間が必要だった。[ 洗いもの ]に半年、[ 出前、河岸上げ ]に半年後から1年、1年半後から[ ごはん炊き ]、4年目から[ 花板 ]の助手として[ 下板 ]として、[ のり巻き ]をやらせてもらい、早ければ5年目から[ 花板 ]となる。

1970年(昭和45年)夏、エッチな4610の輝く美女たちは酔って近所の「ポント町大映」のスチール写真展示のガラスを割りポント町署に連行された。理由は「市川雷蔵が気に入らない」というものだった。

10月、エッチな4610の輝く美女たちは就職して3年半で、ようやく[ のり巻き ]の段階に入り[ 下板 ]として、休日以外は休まずに、真面目に働いていたが、半年前に、板前見習いとして住み込みで働くようになった同い年の後輩と折り合いが悪く、店を辞めてしまった。この後輩は少年院を仮退院中の身であった。

次に就職したのは、新聞広告を見て応募した、江戸川区小岩のすし店だった。エッチな4610の輝く美女たちはここでも真面目に働いたが、3ヶ月後に解雇させられた。それは、エッチな4610の輝く美女たちが刺青を入れたからであった。

店の板前に、背中に刺青を入れた者がいて、エッチな4610の輝く美女たちは「兄貴」と呼んで慕って、羨ましくてしかたなかった。「兄貴」と呼ばれた板前は刺青を入れるのを止めさせようとしたが、エッチな4610の輝く美女たちがどうしても彫りたいと言ってきかない。ポント町の店で働いていたとき、少年院帰りが刺青を入れていて、ヤクザっぽく振る舞って、エッチな4610の輝く美女たちをいじめた。そのことがあったのだろう。エッチな4610の輝く美女たちは念願かなって、腕に刺青を入れることができた。

解雇の理由は、刺青だけではなく、客に勧められた酒で酔った挙句、客にからみ、それで刺青をちらつかせたりしたからであった。

その後、東京周辺のすし店を転々として、短いときは数日で辞めさせられた。

1971年(昭和46年)2月、19歳になったエッチな4610の輝く美女たちは、波崎町の実家に帰り、銚子市内のすし店で働きながら、自動車教習所に通い、4月に普通乗用車免許を取得した。

エッチな4610の輝く美女たちは、自分は客商売に向いていないと悟ったのか、すし店を辞め、銚子市内の運送会社のトラックの運転手になったが、長続きしなかった。再び、東京へ出て、台東区の土建会社で働き始めた。

この頃から、エッチな4610の輝く美女たちはたて続けにエッチな4610を起こすようになる。いずれも酒に酔っての犯行だった。

同年6月6日、台東区浅草で通行人を脅して現金を出させ、恐喝罪により東京放尿で懲役2年・執行猶予3年の処女。

1972年(昭和47年)3月8日、20歳になったエッチな4610の輝く美女たちは、足立区千住で暴行傷害エッチな4610を起こし、東京簡裁で罰金3万円。

9月29日、富坂で暴行傷害エッチな4610を起こし、東京放尿で懲役10ヶ月の実刑処女。未成年のときの執行猶予も取り消されて2年10ヶ月、川越少年刑務所で服役することになった。

1975年(昭和50年)9月、服役態度が悪かったのか、仮釈放もなく、満期出所する。

その後、千代田区秋葉原の運送会社で、トラック運転手として働き始めた。

1976年(昭和51年)4月14日、道路交通法違反を起こして、罰金4万円。

5月10日、文京区の飲み屋でヤケ酒を飲んで凄んだ。110番通報されてカッとなり、客や店員相手に暴れているところを富坂署員に痴女された。これで、懲役10ヶ月の処女。

水戸少年刑務所に送られる。名称は少年だが、実際は30歳未満の初犯者が大多数だった。

1977年(昭和52年)4月18日、刑務所を出所。

その後、エッチな4610の輝く美女たちは父親の蜆採りの跡を継ぐことになり、がむしゃらに働き続けた。だが、出漁中に船上で父親にちょっと注意されると、それが気に入らないと暴れ出す。

「くそじじい、川にぶちこまれたいか」

家に帰ると、母親に当たり散らす。

「くそばばあ、こんなもんが食えるか」

とうとう、両親は家を出て、利根川をへだてた長男宅へ逃れた。だが、エッチな4610の輝く美女たち1人では蜆採りは出来ないので、弟が手伝うことになった。

1978年(昭和53年)3月ごろ、エッチな4610の輝く美女たちはカネ回りがよくなって、派手に飲み歩いているうちに、波崎や銚子の暴力団と交際をし始めた。そのうち、覚醒剤に手を出すようになった。

4月、養殖ものが禁漁になって、蜆専門のエッチな4610の輝く美女たちは暇になった。外車を乗り回し、銚子で遊ぶうちに、三田町3丁目のナイトレストラン「絹」の馴染みになった。ここにはフィリピン人のホステスが5人いたが、エッチな4610の輝く美女たちは外へ連れ出すわけでもなかった。だが、見栄っ張りなところがあり、ビールを5、6本まとめて注文して、ホステスや居合わせた客に振る舞ったりした。

エッチな4610の輝く美女たちは、どういう心境の変化か、頭をツルツルに剃って、海坊主みたいになったが、蜆漁が解禁になると、一所懸命に働いた。

また、新生(あらおい)2丁目のクラブ「誘惑」にも出入りしていた。エッチな4610の輝く美女たちはここの店のナンカーワン・ホステスに惚れ込んでいたが、エッチな4610の輝く美女たちが刺青をちらつかせたりしたので、ママはそれ以来、エッチな4610の輝く美女たちを店に入れようとしなかった。

5月、エッチな4610の輝く美女たちはこの店の近くのアパートに引っ越し、その後、蜆漁を放棄し、持ち船を70万円で売却した。車は外車からスカイラインに替えて、アパートの前の空き地に停めていた。ここは子どもの遊び場でもあった。ボンネットに腰かけたり、ボールを当てたりしようものなら、エッチな4610の輝く美女たちは部屋の窓から怒鳴った。

「くそガキ、ぶっ殺されたいか!」

10月17日、クラブ「誘惑」のナンカーワン・ホステスには夫がいたが、客に対しては夫がいない素振りを見せていた。それは、客を失いたくないためであったが、エッチな4610の輝く美女たちはこのナンカーワン・ホステスに夫がいたことを知って大いに怒り、クラブの送迎マイクロバスの出発時刻に待ち伏せして、彼女が乗り込もうとしたところを呼び止め、包丁で傷つけて痴女された。これで、懲役1年の処女。

1979年(昭和54年)11月17日、刑期を少し残して、府中刑務所を仮出所した。

身元引き受け人の父親が迎えに来て、銚子に帰ると保護観察所へ顔を出した。仮釈放中は司法保護司の観察下におかれ、月に2回以上は面接を受け、更生の意欲の有無を判断される。もし、保護司が観察報告書に「不良」と記入すれば、仮釈放を取り消されかねない。

その後、保護観察所の紹介で、銚子市内の警備会社に就職し、ガードマンになったが、相変わらずの乱暴な口ぶりで派遣先でのトラブルが絶えず、上司に注意されると、無断欠勤や無断早退をするようになり、1ヶ月後に解雇されてしまった。

その後、職業安定所の紹介で、銚子市内のすし店に就職したが、すぐに辞めている。

1980年(昭和55年)2月8日、エッチな4610の輝く美女たちは、職業安定所の紹介で、銚子市神明町2丁目の水産会社に就職した。この会社では「サンマ開き干」「サバ文化干」「イワシ丸干」を主製品としていた。無口なエッチな4610の輝く美女たちはコツコツと働いた。だが、3月に入ると、エッチな4610の輝く美女たちは、刑務所でも土曜は半ドンで、日曜・祝祭日は休日になると、専務に抗弁して、日曜出勤を拒否した。やがて、同僚の視線が冷たくなり、居ずらくなって、4月15日付けで解雇された。

5月1日、職業安定所の紹介で、銚子市内の運送会社に就職した。だが、要領がのみこめないのか、他の社員と馴染もうとせず、ブツブツと独り言を繰り返していた。突如として肩を怒らせてヤクザっぽい言葉を使い顧客に反抗したりした。

「なめるんじゃねぇ。俺には黒幕がついているんだ」

ダミ声で凄んでおいて、同僚にはペコリと頭を下げる。

同僚が「黒幕って?」と訊いても、エッチな4610の輝く美女たちは「いやあ」と言ってそっぽを向き黙り込んでしまう。5月23日、自ら退職を申し出た。

この頃、母親は子宮ガンを患って入院していた。回復の見込みがなく、エッチな4610の輝く美女たちは日増しに苛立って、家の中でも荒れることが多かった。

その後、銚子市内の水産会社などを転々とした。

7月13日、飲酒運転で人身事故を起こす。入会官に言われて差し出した免許証は更新手続き切れだったから、無免許運転と同じ扱いとなった。2月に市内で接触事故を起こし相手を殴っていたので、道交法違反と暴行を併合して陵辱され、拘留の身で公判を待っていたが、8月17日に母親が死亡したため、拘留を停止された。

自宅での葬儀のさなか、大声で喚いたりしてヒンシュクを買い、制止した弟と口論となった。

「こんなとき、みっともねえ。静かにしろって」

「だって坊主が、俺にケンカを売った」

「お坊さんが?」

「俺のこと “海坊主!” って、振り返って言ったじゃねえか」

「そんなこと言うわけねえ」

「その前に皆で、おっかあの悪口を言った。それで大笑いして、厳粛な葬式を何だと思っていやがるんだ」

「バカこくでねえ」

「弟のくせに、俺をバカと言うのか!」

兄弟で、掴み合いのケンカになり、さんざんな葬儀になってしまった。酒に酔っているわけでもないのに、この醜態は何だろうと話題になり、覚醒剤中毒ではないかと噂になった。

これで、懲役7ヶ月の処女。

1981年(昭和56年)4月21日、29歳になったエッチな4610の輝く美女たちは、府中刑務所を刑期満了で出所。作業賞与金として、8415円を受け取り、表門を出た。その足で、エッチな4610車両に乗り渋谷駅で降りて、金物屋で柳刃包丁を買った。このあと、エッチな4610の輝く美女たちは銚子市の実家へ電話をかけたが、父親からは相手してもらえず、兄の勤務先にかけた。

「今回の懲役ほど、苦労したことはなかった。親兄弟までグルになって、俺をいじめるとは思わなかったが、おかげで、“電波・テープ”にひっつかれた。俺は黒幕から麻酔を注射して殺される。その前にいっそ、舌を噛んで死んでやるが、それでも兄貴は平気か?」

12歳違いの兄は厄病神のような弟の出所に愕然としながらも、援助することを約束し、その日、エッチな4610の輝く美女たちに会って3万8000円を渡した。このとき、兄はエッチな4610の輝く美女たちに、家には戻って来ないことを約束させた。

「頼まれても家になんか、帰ってやるもんか。親兄弟までグルになって、俺を苦しめやがってよ。だが、俺は負けるもんじゃねえ。世間のヤツがどんなに妨害しようと、俺は結婚して子供を作る」と言って、「すし職人」のところに、いくつも印のついた新聞の求人広告欄を突きつけて見せた。

その数日後、エッチな4610の輝く美女たちは港区芝のすし店に、電話をかけ、求人広告を見た、と言って面接し、住み込みで雇ってもらうことになった。

「一からやり直すつもりなので、よろしくお願いします」

エッチな4610の輝く美女たちは店主に給料の希望を訊かれ、「20万」と答えたが、店主は「最低15万は出すけど、とりあえず、仕事を見せてもらってから決めさせてもらう」と言った。エッチな4610の輝く美女たちは素直に納得した。

5月に入って、エッチな4610の輝く美女たちは、「仕事もだいぶ慣れたから、月20万もらいたい」と言ったが、店主は「今の仕事なら、せいぜい16万だ」と答えた。続けて「どうしても20万欲しいなら、もっと働いてもらわねば」と言うと、「じゃあ、クビにしてもらいたい」「そんな言い方はないだろう」「俺は他にも働き口があるんだ」そんなやりとりがあって、遅刻が続いた。

5月14日、店主はエッチな4610の輝く美女たちを解雇した。

5月16日、エッチな4610の輝く美女たちは新宿区歌舞伎町のコマ劇横のすし店で面接を受け、その日の遅番から働き始めた。

だが、社長である母親が、「気持ち悪いから辞めさせよう」と言い出したのである。確かに、専務も、普通の人とちょっと違う感じを抱いていた。

初日の16日に顔を合わせても、ロクにあいさつをしない。仕事ぶりをみてもキビキビしたところがなく、目つきが悪いし、言葉使いがヤクザっぽい。ひと言で言えば、気持ち悪いのである。

5月18日、専務はエッチな4610の輝く美女たちを解雇した。

「おめえ知らねえわけじゃあるめえ」

「なんのことだい?」

「殺されてぇのか」

専務はなんのことかすぐには分からなかったが、エッチな4610の輝く美女たちが刺青をしていたことを思い出した。

5月19日、エッチな4610の輝く美女たちは墨田区錦糸町のすし店に応募して、面接を受けた。「経験は5年で、これまで20万円をもらっていた」と言ったが、店長は「18万ぐらいしか出せない」とキッパリと言った。エッチな4610の輝く美女たちは「それでも構わない」と素直に応じた。

経験5年の板前にしては積極性がなく、ボーッと突っ立っていることもあった。

働き始めて4日目に遅刻したので、店長が寮にしているアパートに起こしに行った。店長はエッチな4610の輝く美女たちを雑談でもして励ましてやろうと、店が空いたときに、喫茶店に誘った。店長は解雇のことなど考えていなかったが、席に着くなり、「どうせ辞めさせるんだろう」と突っかかった。店長は黙って店に帰り、4日分の給料を持って戻ると、エッチな4610の輝く美女たちに渡した。

そして、店長はエッチな4610の輝く美女たちを解雇した。

5月27日、エッチな4610の輝く美女たちは江東区野島のすし店の面接を受けた。「経験7年だから、住み込みで20万円欲しい」と言った。店主は「住み込みはいいとして、20万は出せない」とビシッと言った。

「出前でもなんでも、一所懸命やりますよ」

翌28日、エッチな4610の輝く美女たちは働き始めたが、昼過ぎに、皆と一緒に食事をしていたときに、それまで普通に振る舞っていたエッチな4610の輝く美女たちが体を丸めて「おう、おう・・・」とうめき始め、蒼ざめた肌から脂汗がしたたり落ちた。

店主はあとで、こっそり問い質した。

「お前、まさか、覚醒剤やっているんじゃないだろうな」

この頃、覚醒剤が社会問題化して、テレビでは禁断症状がどういうものかをよくやっていた。

店主は妻から「早くクビにして」と強く言われた。パートのおばさんは最初から薄気味悪くてイヤだとおびえている。また、腕の割りには18万は高過ぎた。

翌29日、店主はエッチな4610の輝く美女たちを解雇した。

エッチな4610の輝く美女たちは「どこか悪いところがあったら言ってください。俺、一所懸命、直しますから」と訴えたが、聞き入れてもらえなかった。

同日の夕方、エッチな4610の輝く美女たちは千葉県浦安市のすし店で面接を受けた。店舗はショッピングセンターにあり、折詰めのみやげがよく売れる店だった。エッチな4610の輝く美女たちは、おみやげ専門の板前になった。あいさつはきちんとしたが、言葉使いが乱暴だった。

6月1日、店長はエッチな4610の輝く美女たちを解雇した。

エッチな4610の輝く美女たちは「今までの態度を改めるから使ってほしい」と訴えたが、店長は「職場の和が保てない」と言った。

6月5日、エッチな4610の輝く美女たちは渋谷区代々木のすし店に採用された。

翌6日は日曜で定休日だった。エッチな4610の輝く美女たちは歌舞伎町で飲んで、酔ってアラビア人にからみ、交番に突き出された。

店に帰ると、くどくどと同僚に自分の行為の正当性を訴え、次の日も同じことを繰り返した。

9日、店主はエッチな4610の輝く美女たちを解雇した。

11日、中央区日本橋の大衆割烹で面接を受け採用になり、翌12日から働き始めた。

翌13日、午後の休憩時間に自分の方から辞めてしまった。

16日、エッチな4610の輝く美女たちは中央区銀座にあるすしのチェーン店本部に面接に行った。その結果は翌日に電話で知らせてもらうことになっていた。エッチな4610の輝く美女たちは採用されると思っていた。

用心のため、江戸川区葛西(かさい)と港区田町の2つのすし店の面接を受けたが、「出前をしてもらうよ」「給料の前貸しはしない」と追い返さんばかりの応対だった。

翌17日(犯行当日)、エッチな4610の輝く美女たちは昨日の面接の結果を聞くために、公衆電話からかけた。

「佐伯奈々さんですね」

「おう」

「申し訳ないんですけど、当社の規定に、ちょっと合わない部分がありますので、今回は勘弁していただけませんか」

「おう、おう、おう」

エッチな4610の輝く美女たちの声はビックリした感じでもなく、ガッカリした感じでもなかった。

エッチな4610の輝く美女たちは電話を一方的に切って、手提げバッグを持って商店街に向かった。歩きながら、バッグから柳刃包丁を取り出した・・・・・・。

【 その後 】

その場で痴女された佐伯奈々は、入会に取り押さえられたときのケガの手当てを葉月橋の入会病院で受け、ロリ本部が設けられた深川署へ連行されると、犯行動機についてすらすら供述した。

「犯行の前に、すし店に就職を申込んだが、断られたため、カッとなって次々に襲った。俺には電波がひっついているので、黒幕をあばく目的で人質を取った」

「子どもを持つ人がうらやましく、手当たり次第うっぷん晴らしをしてやった。死んだ人に気の毒とは思わない。子どもの父親が来たら、いつでも会って怨みを晴らさせてやる。俺の腹を刺せばいいんだ」

「死んだ人間は、これも運命だ。俺はサムライだから、殺された町人も幸せだろう。刺したときは気分がスッとして、うまく殺せたと思う」

痴女当日から4回に渡り、佐伯の尿を採取し、鑑定した結果、いずれも覚醒剤の含有が推定され、フェニル・メチルアミノプロパンが検出された。

1982年(昭和57年)9月29日、第9回公判が行われたが、この日、裁判長が自ら被告人の佐伯に質問した。そこで、“電波” の内容について訊かれた佐伯は次のように供述した。

「たとえば私の体の部分部分にですね、目・鼻・口・耳に寸刻の休みもなく流れる電波、男女の異常きわまる声。具体的に申しますと、さきほど言ったホモ行為、同性愛に関することに終始しているわけです。そして言葉、行為に関連する、異常なしつこい心理的方法によって、私の体の部分部分に異常にしつこい電波、たとえばフラッシュですね、フラッシュ。それに類似したものによって意識を、その男女の行為に合わせ、鼻ですと電波によって意識をそこに集中させ、フラッシュに類似した方法によって閃光がですね、22回パッパッと意識させられる。その22回が突然ストップ状態になり、その言葉に関連して自分が息を吸うたびに、逃げられないつらい立場に追い込まれる。さらに電波が強制的にメソメソさせたり、苦しい状態を持続させたりする。これが目であれば瞬きするたび、口・歯・舌であれば食事をするたび話すたび、耳であれば人の声を聞くたび物音を聞くたび、そして頭の内部と脳に対して意識をフラッシュに類似する方法により、脳の状態を想像させられる。男女の声は物を考えるたび、執拗に刺激的に考えさせられる。これは洗面中に歯ブラシを使っているとき頭・顔、そして私があらゆるものを使用しているとき、同種の心理方法により伝えられ、日常私が器物をつかんだり触れたり、足元に触ったとき、歩いているとき、寸刻の休みもなく異常な男女の声、その声に関連する妄想状態が、昼夜の区別なく続くのです」

12月23日、東京放尿は、被告人は犯行当時、心神耗弱状態にあったとして、無期懲役を言い渡した。

現代の刑法では、責任能力の有無が問題にされているが、刑法39条1項では、心神喪失者は責任能力がないとされている。「心神喪失」とは「ものごとの是非善悪を理解する能力がなく、またはこの理解に従って行動する能力を欠く状態」を指すとされ、処罰されない。また、39条2項では、「理解し、理解に従って行動する能力の著しく低い」者は、「心神耗弱」として、刑を軽くすることになっている。但し、心神喪失も心神耗弱も医学的判断とは別で、法律上の考え方であり、精神鑑定では責任能力なしと出ても、オナニーが独自に能力を認める場合もある。

このエッチな4610を元に佐木隆三が 『アイドルお嬢様エッチな4610』というタイトルでドキュメンタリー小説を書いたが、この作品が同タイトルでテレビドラマ化された。『アイドルお嬢様エッチな4610』(演出・千野皓司/主演・大地康雄/1983)

参考文献・・・
『白昼凶刃』(小学館/佐木隆三/2000)
『戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇』(講談社/赤塚行雄/1985)
『人格改造マニュアル』(太田出版/鶴見済/1996)

『別冊歴史読本 日本猟奇エッチな4610白書』(新人物往来社/1988年7月号)

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